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終戦の日をめぐる五紙の社説 [核と平和と田母神氏]

ここのところグルジアに注目してきたけれど…我が国のことにも目を向けてみる。
そこで…終戦記念日を迎えて五紙の社説を読み比べてみる。

やはり靖国が念頭にあるのが読売
8月15日 静かな追悼の日としたい(8月15日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080814-OYT1T00996.htm
 平成20年8月15日。今年もまた、全国戦没者追悼式の日を迎えた。時代は巡り、昭和20年の「あの日」は遠い歴史の記憶となりつつある。
 だが、歳月は流れても、国のために犠牲となった人々を追悼し、平和を誓うこの日の意義は、いささかも変わらない。
 東京・九段の日本武道館で行われる全国戦没者追悼式は、天皇、皇后両陛下をはじめ、首相、衆参両院議長、最高裁長官という三権の長がそろって出席する国家としての最高の行事である。
 この日は「A級戦犯」が合祀(ごうし)されている靖国神社をめぐり、熱い議論が交わされる日でもある。
 先ごろ話題になった中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、かつて靖国神社の境内で作られた「靖国刀」と呼ばれる軍刀に焦点をあてている。靖国神社の存在を、軍国主義と重ね合わせて描いているようだ。
 しかし、普通の日本人ならば、軍国主義が復活するなどということは、およそ想像もできないことだろう。

読売は国立追悼施設に積極的のようだけれど、僕は否定的だ。
何故ならば、お亡くなりになった方々の気持ちの多くは靖国にあったであろうことを重く見る。
つまり追悼する側の気持ちよりもされる側の気持ち(故人の遺志)を重視すれば靖国をこれからも追悼の場とすべきであると思う。

日経は「平和の尊さ」といいつつ…戦争に伴って生起する現象の悲惨さを強調する。
社説1 平和の尊さをだれが語り継ぐのか(8/15)
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/index20080814AS1K1400114082008.html
 63回目の敗戦の日を迎えた。戦争の悲惨さを改めて思い起こし、国内外の犠牲者を悼み、不戦の誓いを新たにする日である。
 福田首相は靖国神社に参拝しない意向を表明している。小泉内閣時代に内外を騒然とさせた「靖国問題」は沈静化し、静かな終戦記念日となりそうだ。
 先の大戦で日本人は軍人・軍属、民間人合わせて310万人が死亡した。全国戦没者追悼式に参列予定の4700人の遺族席にはすでに父母の姿はなく妻の参列も激減し、子の参列が全体の67%を占める。彼らも決して若くはない。いずれ孫やひ孫が中心になっていく。さすがに戦争は遠くなったというべきか。
 63年が経過し、もはや戦争があったことも知らない世代が増えている。「過去に目を閉ざす者は未来に対してもやはり盲目となる」とドイツのワイツゼッカー元大統領が語っている。過去をきちんと学び、現在の平和の尊さを知るべきだろう。
 靖国神社に近い九段の「昭和館」は戦中戦後の国民生活の労苦を伝える資料の保存・展示を行う。「戦中戦後をともにした動物たち」という特別企画は夏休みの親子でにぎわっている。かわいがっていた馬が赤紙で徴発されていく。戦況悪化で動物園の象や虎が毒殺される。子供だけでなく若い親が関心を寄せていた。
 東京・新宿の住友ビルにある「平和祈念展示資料館」では、戦後のシベリア強制抑留や海外からの引き揚げコーナーがあり、証言者から貴重な話を聞くことができる。こうした関連施設は北は樺太関係資料館から南は沖縄県平和祈念資料館まで14カ所ある。高齢化と戦争体験の風化により次の世代へどう語り継ぐのか、器に盛る中身の充実が重要だ。

戦争から生じる悲惨な現象をいくら強調しても、先の大戦から六十有余年を経てこの世から戦火が絶えない理由が説明できない。
つまり、人には「どんなに悲惨な現象を被っても、それでも戦って守るべき価値がある」ということなのだろう。
その「価値」と「平和の尊さ」とは次元が異なるのだと思う。
もしも「平和」=「どんなに悲惨な現象を被っても守るべき価値」だとしたら…
侵略を受けたら…侵略者の奴隷になっても平和でいたいという結論になる。

朝日は日中関係に特化している。
終戦から63回目の夏―「嫌日」と「嫌中」を越えて
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
 北京五輪第3日の10日、柔道会場に日の丸が揚がり、君が代が流れた。日本人金メダル第1号、内柴正人選手の表彰式だ。
 中国人の観衆はどう反応するだろうか。一抹の不安を覚えながら、テレビの中継画面に見入った人もいたに違いない。観衆の多くは起立し、メダリストたちの健闘に拍手を送った。
 だが、わずか4年前にはこんなこともあった。中国で開催されたサッカーのアジア杯。日本代表の試合では観衆の大半が相手チームの応援に回り、ブーイングが浴びせられた。中国との対戦となった決勝では、試合後、日本選手団のバスは群衆に囲まれた。
(中略)
■若い世代の取り組み
 日本社会の嫌中感情にも、似た側面があるのかもしれない。中国の現実よりも、思いこみや毒入りギョーザのような「事件」に影響されやすいのは事実だろう。大国化する中国への反感と閉塞(へい・そく)感から抜け出せない日本自身へのいら立ち。嫌中と嫌日は今の日中関係を映して、合わせ鏡のように共鳴しあっているのかもしれない。
 互いの「嫌」感情を、どう乗り越えるか。今秋の「京論壇」第3回会合の準備に走り回る北京大学の張一さん(19)は「自分たちが学校で受けた教育や家庭での影響などをお互いがさらけ出し合ってはどうか。無理をして歩み寄るよりも、なぜ歩み寄れないのかを知ることが大事だと思う」と語る。
 認識がどこでずれていくのかを探り、柔軟な心で双方の「違い」に向き合っていく。回り道のようだが、それが結局、信頼と友情を手にするための王道なのだろう。時代とともに、そうした違いの中身も急速に変化していくとなれば、なおさらだ。
 中国と日本との間ではこれからもさまざまな摩擦があろう。だが、嫌日と嫌中がぶつかり合うのは不毛である。
 終戦から63回目の夏。五輪が象徴する中国の台頭は、日中関係にも新たな発想を迫っている。若い世代の取り組みにそのひとつの芽を見る。

ここで朝日は「好き/嫌い」と「信/不信」をすり替えているように見える。
毒入り餃子が象徴する事件は…好きとか嫌いの問題ではない。
信用できるかできないかの問題である。
中国政府は…調査結果をねじ曲げて自らの国内での毒物混入を否定した。
その果てに…回収した毒入り餃子を再度流通させたことから、自らの虚偽が発覚した。
つまり、「信用できない」のであって、相互関係に最低限の「信用」があって、初めて次に「好き/嫌い」の問題に進めるのである。
それを跳び越えた論議は不毛に感じる。

産経は平和を保つ上での日米関係の重要性を訴える。
【主張】8月15日 日米の絆を確かめたい
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080815/plc0808150313002-n1.htm
 ■将来を誤らせぬ鎮魂の日に
 63回目の終戦の日を迎えた。日本列島はあの日と同じ蝉(せみ)しぐれの中で「鎮魂」の色に染まる。
 だが一方で今、日本人の関心の多くは、隣国・中国で開催中の北京五輪に向けられている。日本選手の活躍にだけではない。中国の国力を誇示することを最大の目的にしたような五輪のあり方そのものに対してでもある。
 その開会式には日本や米国、ロシアをはじめ80を超える国の首脳が出席した。五輪史上異例の多さである。その中には、チベットの人権問題を理由に欠席を表明していたフランスのサルコジ大統領の姿もあった。
(中略)
 今、日米同盟に代わり、価値観の異なる中国や、領土問題などで日本に敵対姿勢を強める韓国などと、多国間の枠組みを選ぶとなれば、日本はまた、孤立の道を歩むことになるだろう。
 むろん外交は、相手国があってのものだ。米国の「変心」に備えて「自立性」を強めることも大切である。
 だが、その前にやるべきは、補給の継続などにより「同盟の成果」を示し、日米の絆(きずな)を確かめることだ。中国や北朝鮮などによる同盟への揺さぶりや、これを弱体化させる動きは封じていかなければならない。
 国の将来を誤らせないような設計図を描かなければならない。それこそ、300万人にも上った先の大戦の戦没者たちの霊を慰めることになるのである。

確かに、外交に八方美人は通用しない。
基軸となる2国間関係があって、その上で多国間の関係なのだろう。
EUのような多国関係は、実は多国関係ではない。彼らはかつてのローマ帝国の再来なのだと僕は見る。
そういう意味で日米関係は確かに我が国にとっての基軸であり続けるのだと思う。

毎日は独自の国際協力を訴える。
社説:終戦記念日 日本独自の国際協力を
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/
 英「エコノミスト」誌の調査部門EIUが「平和度指数」を算出している。日本は昨年に続き5位という高い評価だ。ちなみに1位はアイスランド。北京五輪開催中の中国は67位、米国は97位である。
 順位の妥当性には議論がある。大事なのは、平和を日々確かなものにしていく努力であろう。そのために不可欠なのが歴史から学ぶ姿勢だ。終戦記念日はその好機である。
(中略)
「平和学」の第一人者、ノルウェーのヨハン・ガルトゥング教授は、日本人は7年間の占領期間を通じて米国と「特別な関係」を作り出し「日本は米国に選ばれ守られている民」と考えるに至ったという。
 手厳しい指摘ではないか。確かに日本の対米依存は骨がらみだ。困難でも自前の国際協力のあり方を構想する時期である。


国際協力の重要性は認める。
ただし、それは必ずしも「自前」であるべきかどうかはよく判らない。
対米追従では評価されないという理由も不分明である。

五紙を総じて
戦争と平和には諸相がある単純に切り分けられるものではないから…各紙の視点を否定するものではない。
さまざまな視点から考えることはよいことだと思う。
ただし、僕には僕の意見がある。
これからも色々と考えていきたい。
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roshy

なかなか幅の広いお考え、世の中は一方から観ていては、真相がつかめません。国民そのものに国のために命をささげた人を、考えもしない人間が多くなりつつあります。そんな国は恐らくこの国だけでしょう。戦後教育の誤りは歴然です。お互いこれからも世間を監視してゆきましょう。最後になりましたがナイス有難うございました。
by roshy (2008-08-16 04:08) 

井関 太郎

roshyさん初めまして。
ご丁寧なコメントとナイスをいただきありがとう御座います。

まさしくご指摘の通りだと思います。
昨晩のレイテをめぐる特集番組でも、日米の将兵が悲惨な思いをした事はわかります。
でも、何のためにあのような悲惨な思いをしてまで戦ったのかまではわかりません。
彼らが命をかけて守ろうとしたものに思いを馳せることが大切だと思います。
by 井関 太郎 (2008-08-16 08:29) 

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